ユーラシア大陸横断(酒の旅)
NASTAROVIA

プラツカートニ

「シベリア鉄道には2つの等級がある。2人用コンパートメントの一等車、4人用コンパートメントの二等車である」
NHKの特集などで、このくらいの知識は得ていた。旅立つ前の日にビデオを見たし、1ヶ月半前に北京→ウランバートル間を列車にて移動しているのでシベリア鉄道と同様の列車に乗ってもいる。

モスクワからイルクーツクへの切符を買いに駅へ向かう途中、東欧から来たという旅行者と知り合った。しばらく立ち話をしていると、彼らがロシア語を話すことが判明した。民主化以前は小学生からロシア語が必須科目となっており、日常会話程度なら誰でもできるのだという。
そこで、切符を買うために必要なロシア語を彼らから学ぶことにした。安い等級の列車にのるつもりでいたので、一等車・二等車はロシア語でそれぞれ何と言うのかを聞いた。高いほうをクーペオニ、安いほうをプラツカートニと呼ぶと教えてもらった。

彼らと別れた後、モスクワ市東部にあるヤロスラブリ駅に向かい、ロシア人にもまれながら切符売り場に並んだ。窓口がたくさんあり、どこに並べばよいのかがぜんぜん分からない。数人に話し掛けたものの、英語を話す人はいないし、聞くたびに違う窓口を指差す始末だ。
同じように困っている中国人5人グループがいた。彼らは露中間で貿易を行っているにも関わらず、ロシア語どころか英語も話さない。大学時代に学んだ(いや、単位を取っただけの)中国語で話し掛け、助けを求めたつもりだったが、結局助けを求められてしまった。自分のチケットを取った後、彼らの北京行きのチケットを買う交渉まですることになった…。
いくつかの窓口をたらい回しにされ、その度に30分以上待たされ、態度の悪い担当者を怒鳴りつけ、2時間程でようやくイルクーツク行きのプラツカートニの切符を手にすることができた。値段は異常に安い。イルクーツクまで5000km以上あるというのに、たったの 940ルーブル(約3500円)であった。

時間になり、指定された車両に乗り込んだ。25両ほどの長い列車であり、僕の席がある0号車に辿り着くまでに10分以上はかかっただろう。パスポートのチェックを乗務員のおばちゃんから受け、入り口のドアを開ける。
目の前に開けた風景は今までに知識として得たシベリア鉄道の様子とはかけ離れていた。コンパートメントには扉がなく、きちんと仕切られていなかった。開けられないようになっていることの多いはずの列車の窓は、歪んでいて閉らない窓になっていた。ベッドは短く、足を伸ばして寝ることは難しい。荷物と人で溢れた車内は、まさに「たこ部屋」と呼ぶのに相応しかった。

プラツカートニ。
二等車のつもりで買ったこのチケットは、実はもう一等級下のものであった。いずれにしろ最下等級にて旅をするつもりであったので、三等車とに巡り合ったことだけでもラッキーであったとは思うが、車内の混沌とした様子を初めて見たときは、正直、この先の90時間が不安だった。心の休まる暇がないことは明らかだったからだ。

しかし、不安はやがて消えた。
この車両こそが今回の旅の醍醐味であるいうことに気づくまで、それほどの時間はかからなかった。仕切りがなく、プライバシーがないからこそ、列車に乗る人同士の衝突があり、交流が生まれる。
長い時間を共有することで初めて、シベリア鉄道に乗る人々の本当の姿が見えてくる。そう、本当の姿が…。

◆ちなみに、シベリア鉄道の一等車のことをルックス(lux)と言うようです。
◆イルクーツクで聞いたのですが、ロシアの大都市には外国人用の切符売り場があるそうです。手数料等で少し高く、三等車の予約はなかなかしてもらえないようですが、あまり並ばずにチケットを買うことができます。なんと、英語も通じるみたいです。
シベリア鉄道の車両について

 

シベリアの風

自分の席につき、列車の出発を待っていた。
たくさんの荷物を運ぶため、人々が忙しそうに行ったり来たりしているが、リュックサック一つしか持たない僕は、何もせずにこれからの長い時間のことを考えていた。

列車が動き出した。
ようやく席に着いた周りの乗客に挨拶をした。ウクライナ人のおっさんが一人とロシア人の母子がすぐ近くに座っていた。3人とも英語を話さないため、出身地と名前を聞くだけで苦労した。
自己紹介に時間がかかっているうちに、同じコンパートメントにいたもう2人は、――同世代の女の子2人組であり、これからの長い旅を考えると最も話をしたいと思っていたのだが、――席を離れてどこかへ行ってしまった。

会話はすぐに止まった。
お互いに質問をしようとジェスチャーを交えていろいろ話そうと試みたのだが、意思の疎通は困難を極め、やがて、諦めてしまった。話したいことがあっても、通じない。このもどかしさを解決できないまま、列車の走る音だけが虚しく響き渡っていた。そして、3時間が過ぎた。

シベリア鉄道の旅は恐ろしく退屈だ。
今までにネット上でいくつかの体験記を読んだ。体験記の多くはこう語る。本やテレビ番組では長旅のロマンを絶賛したものばかりだが、インターネットの中の文章では、ネガティブな感想が多かった。特に、4〜5日目の感想には「することがない」とか「・・・(無言)」というものが多いのだ。
自分が旅をしていて、こうした感想を持つのはとても嫌だった。当り前のことではあるが、僕は常に「楽しい旅をしたい」と思っている。しかし、このときばかりは、ネット上にあったネガティブな感想とまったく同じことが頭の中で確信に変わりつつあった。

女の子2人が戻ってきた。
簡単に挨拶をすると、なんと、2人はカタコトの英語を話せた。ロシア人で、モスクワの 300km北東にあるヤロスラブリ出身だった。モスクワの大学生で、夏休みのため帰省するところだという。
しばらくとりとめもない話をした後、ロシア語を教えてもらうことになった。挨拶や数字、簡単な単語をいくつか書いてもらい、一つひとつ発音をしていく。うまくできると周りから歓声があがり、ヘタクソだと笑いが起こる。
やがて、他のコンパートメントからも人が集りだした。狭いスペースの中に20人ぐらいがいたのではなかろうか。30分も教えてもらうと、簡単な自己紹介ができるようになり、聴衆の前でスピーチを披露した。調子に乗って車両中を歩き回ったので、そのときその車両にいた人は、車両の真中辺りに日本から来た Kyoという旅行者がいることをみんな知ることになった。

午後7時、列車はヤロスラブリ駅に着き、女の子は去っていった。なかなか発車しないので他の乗客に従って外に出てみると、たくさんの物売りがいた。ピロシキやチキンの丸焼き、トマト等の生野菜、ピクルス、ミネラルウォーターなど様々な物が売られている。夕食にするため、そのうちのいくつかを買った。
ソ連邦崩壊前は、物売りはほとんどいなかったらしい。国家が崩壊し、制度の変化に対応しきれなかった人たちが、生活のために始めたというパターンが多いようだ。ほとんどボッたくられることもないので、旅をする者としては非常にやりやすくなったのではあるが、事情を知ると少し複雑な気持ちになる。だからいつも、必要と思われるより少し多めに購入することにした。僕のお腹には脂肪がつき、彼らの懐も温まる。まさにウィン(?)・ウィンである。

自席に戻り、食べ物を頬張った。ヤロスラブリ駅から列車が動き出すと、ウクライナのおっちゃんが戻ってきた。何か食べてきたのだろう。口にケチャップがついている。彼は言った。
「Kyo, You want Russian Vodka?」
彼が発した、最初で最後の英語のフレーズだった。ついに始まった。シベリア鉄道にはウォッカが似つかわしい。

「Да,Да!(ダーダー、はい、もちろん!)」
小さなグラスにウォッカが注がれた。「Nastarovia!(乾杯!)」の掛け声とともに一口でグラスを開けると、驚いた顔をしたウクライナも大急ぎでグラスを空けた。空になると注ぎ、また無くなると注ぐ。数分で一瓶目が空いた。
リュックを空け、今度は僕がウォッカを提供した。横のおばちゃんが何やらロシア語で僕に向かって話した。よく理解できないが「ウォッカは強いから気をつけなさい」と言っていたと思う。通じないのが分かっていながら僕はつぶやいた。「気をつけるのはウクライナの方だと思うよ」

何語で話したのか覚えていないが、会話をしながらウォッカを飲みつづけた。3瓶目のウォッカが半分まで空いたとき、彼は「行かなければいけない」というようなことを言って去ろうとした。列車の中にいるのだから行くべき場所などないのだが、これを彼の敗北宣言として受け止めた。僕自身もヘロヘロになりかけているのでちょうどよかった。助かった。

眠りに落ちた後、ドスンというものすごい物音で目が覚めた。酔っ払ったウクライナが、上のベッドから転げ落ちたのだった。よっぽど酔っていたのだろう。落ちたのに痛がる様子もなく、鼻歌を歌いながらときどき叫んでいた。
下のベッドに寝ている人を起こし、ウクライナのおっちゃんをそこに収容した。一晩中唸り声は絶えなかった。

目を覚ますと昼前だった。幸い気分は悪くなかったが、ウォッカのにおいが気になった。隣のコンパートメントではすでに酒盛りが始まっているようだ。覗きこむと、驚くべき光景を目にすることになる。
ウクライナは性懲りもなくウォッカを飲んでいた。彼の真っ赤なお鼻はトナカイさんのそれであった…。本当にタフな奴だ。

前日、顔を売っていたため、車内を歩くだけでいろいろな人にから声をかけられる。そして飲んだくれた男たちはやっぱりウォッカを勧めてくる。シベリア鉄道をフルにエンジョイするため、彼らの要求には可能な限り応えた。ウォッカを出される限り、「Noと言わない日本人」を貫くことにした。

3日目以降も状況は変わらなかった。しかし、乗客は徐々に入れ替わっていく。僕が乗った列車は、長距離で移動する人が少なかった。24時間以内で降りていく人が多かったように思う。ノボシビルスクでウクライナのおっさんが降りたときには、同じ車両にモスクワからの乗客はいなくなっていた。
初日のウクライナと日本との闘いは一つのストーリーとして車両内に何となく広まっていた。そのお陰で、ウクライナが下車した後も、数々の乗客と話しをしやすかった。「君が、その、ヤポンスキーか」というような感じだった。

モスクワを発ってからから90時間後。
乗務員に促され、列車を降りた。イルクーツクにいた。

4泊5日の列車の旅。それは予想以上に短いものであった。あっという間に過ぎた90時間だった。 100人以上の旅客と話し、50杯以上のウォッカが喉を通過した。プライバシーのない「たこ部屋」で、絶えず誰かに見られていた。ウォッカによる激しい攻撃が続いた。

しかし、そこに残ったのは安らぎであった。常に平和な時が流れていた。
シベリアの風に吹かれながら、酒を飲み、語り合い、出会い、別れていく。そこには駆け引きも、遠慮も、嫉妬もない。シベリア鉄道とは、純粋に人と人とが出会える数少ない聖域の一つだったのだ。

◆ロシアのピロシキには普通、肉が入っていません。ジャガイモだけなので中身が真っ白です。ロシアでもこんなピロシキが食べたかった…。↓

 

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