再び見ゆ
北京では一年ぶりの劇的な再会を果たした。
昨年の「ユーラシア大陸横断(酒の旅)」で、友を訪ねることや良き友との再会の素晴らしさを確認した。そうした経験のためか、昨年の帰国後、以前よりも筆マメになった気がする。印象に残る話しをした人や再び会いたいと思った人にはできるだけ連絡をとるようにした――面倒でも、出会ったそのときの気持ちが薄れないうちに、なんらかの連絡を取ってみる――小さな努力が新た
な感動の種となり得るから。
その甲斐あって、昨年イルクーツクで会った人物と、北京で再会することになった。一緒に旅行する場合を別にして、一年を経てまた同じような地域を旅するというのはとても珍しい。しかし、偶然というものは、えてして、起こるものである。
その彼はスウェーデンの大学で環境の勉強をしている。この夏、偶然にも大学から研究費が下り、モンゴルでリサーチをすることになった。そして、僕は偶然にも中国からシルクロードを旅することを決めていた。
お互いにその事実を知ったのは、僕が旅立つ数日前だった。ネットカフェで何度か連絡を取り合い、北京で半日ほど会えることになった。
約束の日。
僕は神戸から天津へ行く船「燕京號」で知り合った友人たちを連れて、北京国際飯店のロビーに行った。そこには見たことのある顔があった。
再会の喜びも束の間に、僕らは語り始めた。「久しぶりだね」という言葉よりも、意見を述べ合うことが僕らには重要であった。形式的なことはいらない。
いわゆる常識や世間体に囚われずに、自分の信念を貫くにはどうすればいいか、というのが昨年から続く議論のテーマであった。そんな議論の中に、一年間の自分たちの行動を織り込んでいった。
半日という時間は、もちろん、短すぎた。しかし、会う時間が3日であっても、一週間であっても、同じだと思う。話というものは尽きるものではない。
出会うべき人には「いつか」「必ず」出会う。
旅を繰り返すうちに、こうしたことに思い至った。人類の数に比すると出会う確率はどうしても低いので、全ての出会いは「偶然」に思える。しかし、あるタイミングで同じ場所に居合わせるのは、それが必然だからに他ならない。
興味・関心や意思に共通点があるからこそ、同時にその場所に居合わせることができる。出会いは「偶然」ではなく、生き方に従って生じる「運命」である。
再会に関しても同じことが言える。特に国を隔てている場合、会おうと思うことと実際に会うことが結びつきにくい。距離だけでなく、時間的・金銭的な制約もあるからだ。また会いたいと単に思うことだけではなく、お互いに共通点を持ち、会うことによってお互いに高め合えるエネルギーを持っていることが再会に必要な条件となる。一人と一人が出会うとき、二人分以上のエネルギ
ーを生じることがある。お互いが必要としている関係というのがその条件であり、そうした人との出会いが必要な人との出会いということになる。
エネルギーを生み出す人同士は自然と引きつけ合うのだろう。似たような目的・意思を持っているから当然でもあるが、出会うべき人に出会い、再会すべき人には再会できる。
北京駅で、二度目のお別れをした。「再見」という、中国語で「さようなら」を意味する言葉を口にしながら、短いながらも深い意味を持つ素敵な単語だと思った。心が震えた。
次に会う約束をしたわけではない。しかし、必要な時には「再び見ゆ」ことになるだろう。小雨の降りしきる中を早歩きしながら、そう確信した。
宿に戻ると、さらに驚くべき出来事が待ちうけていた。
ロビーに見覚えのある顔を発見した。昨年、モンゴルの草原で3日間ともに過ごした旅人だった。メキシコ在住の彼と、こんなところで再会するとは夢にも思わなかった。しかし、現実に会うことになった。
草原からウランバートルに戻った後、連絡先を交換する間もなく、別れてしまった。旅人として共有できる感覚が多く、ぜひまた会いたいと思わせる人物ではあったが、そのときはタイミングが合わなかった。
しかし、「再見」は果たされた。
出会うべき人には「いつか」「必ず」出会う。旅の経験を通して思い至ったこの命題は、旅を繰り返す度に事実となっていた。
再見。また会おう、いや、また会えるさ。
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