第五章 近代・現代の相撲 ―近代社会と相撲―
第一節 概観
これまで、日本における相撲の歴史を、相撲をとりまく社会との関係を織り交ぜながら見てきた。本章では、一般的に太平洋戦争を境として分けられる近代と現代を、相撲自体にそれほど変化が見られないことから、まとめて近現代として、近代以降の相撲の変容と社会・文化との関わりを取り上げ、論じていきたいと思う。
そもそも、「近代」という言葉には主に二つの意味がある。一つは、原始・古代・中世・近世・近代・現代という、歴史学における時代区分の中の、近世に続く区分として用いられる「近代」。そしてもう一つが、17世紀のイギリスで生まれ、18世紀から19世紀にかけて、西欧のみならず世界中のほぼ全ての国々の社会・文化の諸領域を変化させた「近代化」によってもたらされた、社会・文化のあり方の総体としての「近代」である。近世、すなわち江戸時代の日本は地理的条件と鎖国政策により、他国から影響を受けずに独自の社会・文化を構築していた。そのため、徳川幕府による江戸時代の終焉を迎えると、時代区分としての「近代」の到来とともに、もう一つの「近代」が、怒涛のように日本の社会・文化のあらゆる領域を揺るがすことになったのである。
これまでの章で見てきたように、相撲は、その時々の社会や政治体制と密接に関わりながら、発展し、変容してきた。その相撲が、このもう一つの「近代」、すなわち社会の近代化によって非常に大きな影響を受けたことは想像に難くない。その中で相撲は、その長い歴史の中でたびたび見せてきた、その「ゆうずうむげ融通無碍」(1)の性質を存分に発揮し、その都度苦境を乗り切りながら複雑にその姿を変えてきた。
社会の近代化・西洋化は、直接的に相撲を変容させようとしたが、同時に間接的に影響を与えることも多かった。例えば、近代化・西洋化の反動から来るナショナリズムの影響を色濃く受けて独自の発展を遂げた、「武道」概念の影響を受けたことなどは、直接的なものというよりは、むしろ間接的・二次的な近代化の影響であると言えよう。
このように近代には、相撲は社会の変動にあわせて大きく揺れ動いたが、そのはじまりとして位置付けられるのはもちろん明治維新と、それに続く文明開化である。欧米流の近代国家の建設を急務とした明治政府の政策と華やかな西洋文化の急速な流入は、社会に「脱亜入欧」の機運をもたらした。旧来の日本の伝統的な文化や慣習が文明開化を阻害する前近代的な旧弊として、軒並み否定される風潮は、相撲にとってまさに史上最大の危機であったといえる。そもそも勧進相撲興行に代表されるこの時代の相撲は、相撲節以降の長い歴史を持ち、日本的な風俗や慣習に密着した様式性を欠くことのできない重要な要素としていたのである。断髪令ひとつをとっても、それが「故実」に支えられた相撲にとってどれだけ大きな意味を持っていたかが容易にわかるであろう。
幸い新政府内には相撲に対する理解者が比較的多かったため、明治4(1871)年に実施された断髪令の相撲社会への適用は免れたようであるが(2)、依然として、「文明開化の御代に、相撲のような裸踊りなど許しておくのは怪しからん」(3)「蛮風として廃止すべし」など、相撲への攻撃は相当厳しいものがあったようである。
そのような状況にあって、相撲会所をはじめとする相撲社会は、社会に貢献することによって世論を和らげるべく、様々な奉仕活動を展開した。維新直後の明治2(1869)年3月には、明治天皇の転都の大儀(御東遷)に際して、京都力士が錦旗をほうじ捧持して品川まで同行し、東京力士がこれを迎えたという。そして同年7月には、くだんしょうこんしゃ九段招魂社(現在の靖国神社)の火の鎮座祭に際して、相撲を奉納し、明治5(1872)年には神殿の造営にあたって力士を工事に従事させている。少しさかのぼって明治3(1870)年4月には、駒場野における明治天皇による陸軍最初の観兵式があり、きめんざん鬼面山やさかいがわ境川ら当時の上位力士がきんきほうじ錦旗捧持の役をおおせつかっている。また、明治9(1876)年には、東京相撲会所によって幕下・三段目の力士の中から「力士消防別手組」が組織され、それから二年間にわたって東京市内の消防活動に従事したという。
相撲とそれを支える文化の結晶としての様式が、旧弊として否定され、近代化の妨げとして攻撃されたことは、相撲熱を下火にし、たしかに相撲界に大きな影響を及ぼしたが、維新以降の社会の変動は、もう一つの大きな打撃を相撲に与えた。それは、幕藩体制の崩壊による、相撲社会を支える経済基盤の喪失であった。詳細は次節で述べるが、これはまぎれもなく、大きな打撃であった。
そしてこの時期の相撲社会は、外部からの影響とともに、その内部からも変革をつきつけられることになる。明治6(1873)年、当時幕内力士であったたかさごうらごろう高砂浦五郎は、力士の待遇改善を要求し、会所内部の改革を求めて東京相撲会所に要求書を提出し、それが入れられず会所を除名されると、「改正組」を組織して名古屋で新組織による興行を旗揚げしたのである。この事件は、力士による労働運動ともいうべきもので、まさに近代化による社会の変化の影響を受けて起こったものであろう。これに類する事件は、その後明治44(1911)年の新橋くらぶ倶楽部事件、大正12(1923)年の三河島事件、昭和7(1932)年のしゅんじゅうえん春秋園事件と、明治から昭和にかけて東京だけで都合4回も起こっている。それらの内部からの改革の要求も受けて、相撲社会は近代の日本の社会にあった興行体制を徐々に形作ってゆくのであるが、それぞれの詳細は次節で述べる。
その後東京相撲会所に復帰した高砂浦五郎による様々な改革によって、相撲社会は近世までの旧弊を少しづつ改めてゆくのだが、相撲人気の下火もあって、依然として、相撲社会の困窮と苦境は続いたのであった。
その明治維新以来の、相撲史上有数の不遇の時代に突破口を与えたのが、外部の権力であった。明治17(1884)年3月10日、明治天皇による4回目の天覧相撲が行われたのである。この天覧相撲はそれまでの3回に比べて規模が格段に大きく、また「お好み」で行われた当時第一人者の初代うめがだに梅ヶ谷と新鋭のおおだて大達の相撲が評判となり、この天覧相撲をきっかけとして相撲人気は回復に向かったと言われている。前述したように、天皇やその時々の権力者の前で行われる上覧相撲(天皇の場合は天覧相撲)は、相撲にしばしば良い影響を及ぼしてきた。見方を変えれば、それは相撲がいかに政治権力と密接な関係にあったかということを示す証拠でもあるのだが、ともあれこの時の明治天皇の天覧相撲は、当時の相撲社会にとって一種の助け船となったことは間違いないのである。
明治時代も後期になると、急速な近代化・西洋化にさらされた後発国に頻発する現象であると言われる、反動としてのナショナリズムの復興が起こり、日本社会には「こくすい国粋」的な風潮が蔓延した。日清・日露戦争の開戦とその勝利もナショナリズムの復興を促進し、明治天皇の天覧相撲を契機として人気を取り戻しつつあった相撲は、さらなる人気回復をとげ、興行的にもようやく安定を見た。江戸の谷風、昭和の双葉山と並び称される明治最高の力士と言われるひたちやま常陸山と、そのライバル梅が谷(二代目)、おおづつ大砲、あらいわ荒岩、たちやま太刀山、朝汐(初代)ら、実力と人気を兼ね備えた名力士が多く出たこともあり、明治の終わり頃には、大相撲人気は「空前の」と形容されるほどに盛り上がったと言う。そこで、屋根つきの常設相撲場の建設が必要とされた。
東京両国元町の本所回向院境内に「国技館」と名付けられた常設相撲場が落成したのは、建設の決定から3年経った明治42(1909)年5月のことであった。国技館は、単なる常設相撲場の完成以上の影響を相撲に及ぼした。実は、相撲が日本の「国技」であるから、国技館という名前をもった相撲場が建てられたのではなく、国技館の建設後、相撲を「国技」とする言説が登場するのである。
国技館の建設を契機に、横綱が正式に番付上の最高位になり、団体優勝制度が制定されるなど、興行形式にも手が加えられ、入場者数も増加し、相撲協会の経営基盤は安定を見た。
明治後期には、好角家の文士たちにより、「文士相撲」や「紳士相撲」というアマチュア相撲が始められ、それと時を同じくして学生相撲も本格的に始まったと言われる。
こうして明治時代が終わり、大正時代に入ると、第一次世界大戦後の世界的な不況や、2度の国技館全焼などもあり、大相撲は経営的に苦境に立たされた。東京のみならず、京阪の相撲も、それ以上の苦境にあった。京都相撲は、ロンドンで行われた日英博覧会への出席にはじまる長い海外巡業が仇となり、すでに明治43(1910)年に経営難の末解散していた。大阪相撲も、養老金問題に端を発した内紛が起こり、幕内力士の多くが土俵を去っており、衰退あらわであった。長引く不況の影響もあり、東京・大阪の両相撲協会の合併は、もはや避けられないものとなった。
その情勢の中で、大正14(1925)年4月、赤坂東宮御所で皇太子(のちの昭和天皇)による台覧相撲が行われ、その際の下賜金をもって東宮杯(現在の天皇杯=優勝賜杯)がつくられた。東京相撲協会は、この名誉を相撲界全体で共有すべきだとして大阪相撲協会を説得し、同年7月に両協会の合併調印が行われ、12月に財団法人大日本相撲協会の設立が認可され、ここに現在の日本相撲協会の前身が誕生したのであった。(4)
この興行体制上の大変革も、上覧相撲(ここでは台覧相撲)をきっかけとしてなされていることを、重ねて言うが指摘しておきたい。
その後、大正の中ごろから昭和初期には、出羽海部屋に有力力士が偏り好取組が減少したことや、深刻な不況もあって、相撲人気は停滞するが、昭和10年代ころから、名力士(のちの大横綱)双葉山の台頭もあり、相撲人気は徐々に回復した。
昭和も10年代に入ると、日本は急速に右傾化し、ナショナリズムの波に呑まれて行く。ナショナリズムの勃興と時を同じくして、「相撲は日本精神の真髄」「相撲道」などという、相撲を国民精神の規範である「武道」とするような言説が、このころから盛んに見られるようになる。昭和11年初場所7日目からはじまる双葉山の69連勝は、中国大陸での日本軍の進撃と重ねられ、「無敵双葉」と「無敵皇軍」の相似性が、双葉山を、単なる強い横綱から、国民的英雄にまで押し上げた。野球など、他の人気スポーツが敵性遊戯とされたことともあいまって、戦時下における相撲は押しも押されぬ国民的スポーツ(かつ武道)となったのであった。
太平洋戦争が始まると、社会がカーキ色一色に塗りつぶされた時代にあって、相撲もまた、その例外ではなかった。昭和18(1943)年5月には、相撲協会に勤労報国隊が結成され、力士は各地の軍需工場で勤労奉仕するために散り散りになった。翌19(1944)年2月には国技館は軍部に接収されることになった。終戦直前の昭和20(1945)年3月の東京大空襲の時には、両国の国技館も被災し、相撲部屋の多くが焼失した。そのような甚大な被害を蒙ったにもかかわらず、6月には国技館で、ほとんど観客のいない非公開の夏場所が7日間で挙行されている。大相撲が、近世に確立した、観客に供される「芸能」であることから考えると、この非公開の場所はなぜ開かれなければならなかったのかが疑問である。
宮本徳蔵は、その点に関して次のように述べている。
「相撲をかたちづくるさまざまな道具立てのうちいちばん重要なものを一つ選ぶとしたら、それはもう疑いもなく「番付」ということになるだろう。誇張を恐れなければ、相撲のために番付があるというよりは、むしろ番付のために相撲が存在すると言い切ってもいいくらいである。あの戦争のまっただなか、アメリカ空軍の爆弾の雨を浴びて東京の街の半ばが焼野原と化しつつある折にも、本場所はもよおされた。むろん見物客はほとんどいないも同然で、土俵下には審判委員をつとめる親方衆が鋭く目を光らせているきりだった。国家存亡の危機においてさえ、いやそんな時であればあるだけ、春夏二度の番付はぜひとも作成しなければならなかったからだ。」(5)
恐らく、東京が焼野原になり、日本がどうなるかわからなかったときだからこそ、伝統文化である相撲の番付を作成するということを守らなければならないという自覚により、非公開の相撲が行われたのであろう。近代スポーツの一つの特徴、記録への固執がここにも見られる。
同年8月、日本は降伏し太平洋戦争は終わる。
戦後の相撲は、国技館が占領軍に接収されていたため、昭和22(1947)年6月に明治神宮外苑で夏場所十日間の開催を持って、再開された。同年には、同成績の場合の優勝決定戦、殊勲・敢闘・技能の三賞制度が定められ、それまでの東西制が系統(一門)別総当り制にとってかわられるなど、興行形式上の改革が行われた。(6)
テレビ中継が始まる前年の昭和27(1952)年には、土俵を見やすくするために、四季とその神々(7)を表しているとされた4本柱が撤廃された。翌28(1953)年にはテレビ中継の開始もあって相撲人気は復活し、翌29(1954)年9月には東京浅草に蔵前国技館が落成した。昭和33(1958)年7月場所から現在と同じ年6場所になり、昭和40(1965)年初場所から部屋別総当り制が導入された。昭和60(1985)年1月、再び東京両国に壮大な新国技館が建設され、以降は年3回の地方場所以外の場所(8)は、この両国国技館で行われている。
プロレスなどの外来の格闘技に押されながらも、伝統的な好角家と新しい相撲ファンに支えられ、相撲はスポーツの一つとして比較的安定した人気を博して、現在に至っている。
以上、駆け足で明治維新から現在までの近代・現代の日本における相撲の歴史を見てきた。以降の節では、近代に入って、変容していく相撲の姿を、二つの側面から捉えてみたい。第二節では、芸能としての大相撲の興行体制の近代化の過程と力士の経済基盤の問題を追い、第三節で、近代に入って西洋から流入した「スポーツ」概念と相撲の関係を考えたい。
これらの複数の視座から、相撲とそれを取り巻く近代社会の関係を歴史的に明らかにしていくことによって、現在の相撲が置かれている複雑な状況を理解する一助とするとともに、相撲の「行く末」の考察につなげたい。
第二節 興行体制の近代化
前節の前半部で述べた、明治維新直後の相撲史上最大の逆境にあって、最も相撲社会に対する打撃となった社会の変化は、急速な西洋化による日本の伝統文化を旧弊として否定する風潮と、版籍奉還・廃藩置県による幕藩体制の崩壊であった。第四章で述べたように、近世の専門的相撲人たる力士たちは、職業相撲集団とは言いながら、必ずしも彼らの経済生活は相撲興行の収益のみによってなりたっていたわけではなかった。個々の力士は、藩によるお抱え制度など、大名に代表される相撲社会の外部の経済勢力からのふち扶持によって、生計を立てている場合が多かったのである。
廃藩置県によって幕藩体制が崩壊すると、力士の経済状態は急速に悪化した。この時を契機として、抜本的な興行システムの改革と経営努力が行われ、相撲社会が外部勢力からの経済的援助を必要としない自己完結的な組織に生まれ変わる努力がなされるべきであったが、実際にはそのような内部からの努力も行われず、新政府の「富国強兵」政策のもとで育成された商業資本など新興の経済勢力に「ひいき贔屓」の主体を変えたのみで、外部の経済勢力に依存する体質は全く変化しなかった。この体質が、後に、4度も起こる、力士による労働運動とも言うべき、相撲社会内部からの改革運動を引き起こす原因となるのである。
また、急速な近代化と西洋化にともなう社会の混乱は、大名など武士に次いで相撲を愛好し後援した江戸(東京)の民衆の生活を脅かし、「相撲どころではない」と、西洋化の風潮とともに相撲人気を停滞させた。これによって興行収益はますます落ち込んだと言われている。「蛮風として廃止」という世論の攻撃とともに、経済的な打撃も相撲社会を揺るがした。
少しさかのぼって慶応4(1868)年には、江戸相撲の実力者、横綱じんまくきゅうごろう陣幕久五郎が、江戸を去って大坂相撲に身を投じる事件があった。近世には江戸・大坂・京にはそれぞれ年寄(頭取)によって会所が構成されて、興行を主催する組織として機能していたとはいえ、あくまでも江戸を中心とした三都勧進大相撲興行の一環をなすものであり、興行システムとして明確に分離されていなかった。しかし、この陣幕の大坂行きによって、大坂相撲は三都勧進興行体制から離脱し、京都相撲と連携しつつ、独立した興行を打つようになっていた。
東京における相撲人気の停滞は、かなりひどかったようで、加藤隆世は、その有様を以下のように述べている。
「年二回の大相撲は、一応催されてはいるものの、まつたく、辛うじて形式を止めたといふに過ぎないものであつた。陣幕が江戸を去つたのは江戸の相撲に見限りをつけたからだ、というような取沙汰も生じてきた。ところが、このような状況にも関わらず、相撲会所の幹部たちは、まつたく何らなすところがなかつたのであつた。また、その状況を打開できる人気・実力を備えた力士も欠けており、一層沈滞を深からしめた。」(9)
そのような状況下の明治6(1873)年、力士の待遇改善を要求し、会所内部の改革を求めて、当時幕内力士であったたかさごうらごろう高砂浦五郎が会所に要求書をつきつけ、それが入れられず会所を除名されると、「改正組」を組織して名古屋で新組織による興行を旗揚げしたのである。「改正組」は明治10(1877)年には東京府知事に「横綱届」を出して熊ヶ嶽に横綱土俵入りをさせるなど、会所側と相撲故実体制にことごとく対立した。ところが明治11(1878)年2月に警視庁から、力士と行司の鑑札による登録制や、相撲興行の組合を東京府下に一組しか認めないことなどを含んだ「すもう角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」が発布され、高砂浦五郎の「改正組」は東京での興行が行えなくなった。このため「改正組」は経済的に立ち行かなくなり、政治家の仲介などをもって同年5月には、彼ら改正組一同の会所への復帰が実現した。同年に制定された「角觝営業内規則」により、力士・年寄らに対する給金の規定などが細かく定められ、それが明治19(1886)年、同22(1889)年、同29(1896)年と改正され、しだいに相撲興行組織としての形式が近代化されていった。また、東京相撲会所は明治22(1889)年に「東京大角力協会」と改称される。これらの改革にあたっては、会所への復帰後年寄となり、後に取締となって実権を掌握した、高砂浦五郎がかなり主導権を握っていたと考えられる。明治の風雲児高砂は、相撲社会の改革に一度は失敗したものの、今度はもう一度内部に入ってそれを成功させたのである。
大坂相撲会所でも、明治21(1888)年に80人余りの力士が脱退し、「こうかくぐみ広角組」という新組織を結成して会所とは別に興行を行った。その後東京会所と同じような経過をたどって、大坂相撲会所は同30(1897)年に組織改革の断行とともに「大阪角力協会」に改称し、大阪府知事の認可を得た。
新田は、この認可に関して、「 「故実」というくくり糸を失った相撲界は、そうした外部的な秩序を介して、かろうじて統合を維持していたのであった。」(10)
と述べている。吉田司家を頂点とする故実支配体制によって、権威を維持していた相撲会所に代表される相撲社会は、故実の権威の弱化に伴って、新しい権威を外部に求めなくてはならなかった。それが府知事などの政治権力である。これらによる権威付けがなければ、秩序を維持できないほど、明治時代前半の相撲社会が置かれた状況は厳しかったということであろう。
その後、前述したように、明治天皇の天覧相撲や、国粋的風潮への社会の揺り戻しもあり、相撲は徐々にその人気を回復して行った。相撲人気は興行収益と直結している。観客の入場料(11)は相撲協会の最大の収入源であった。しかしながらその頃の相撲興行は、近世までの相撲興行の形態を多く引きずっており、寺社の境内に小屋をかけて相撲が行われていた。明治に入ってからは、東京は両国の回向院(12)で興行が行われていた。
しかし、この当時の小屋がけ、「晴天十日興行」(13)という形態では、大量の観客を安定的に動員できず、せっかく復活した相撲人気による収入増のチャンスを逃してしまうおそれがあった。ここに屋根つきの常設相撲場の建設の必要性が生じ、明治42(1909)年に、両国元町に「国技館」が完成した。
国技館の建設を契機に、興行形式にも手が加えられた。まず、屋根つきの国技館で相撲が行われるので、天候は関係なく、本場所は、幕内力士が連続して十日間出場するようになった。そして、幕内の取組を東西対抗形式にし、十日間通算の勝敗数によって団体優勝をあらそう制度が制定された。これにより、土俵上の取組は厳しさを増し、相撲人気はさらに高まって行った。国技館の完成により、1万3000人の観客を一度に収容できたことも、相撲協会の収入を大幅に増加させた。
こうして、興行体制は徐々に整備され近代化されていくが、明治時代の高砂浦五郎の改革の後も、力士の経済基盤は、根本的には依然として近世のままで、外部の「贔屓」による経済的な援助に依存していた。給与が十分でなかっただけではなく、労働者としての力士に対する、養老金・慰労金などの制度的な保障も全く整っていない状況であった。
明治44(1911)年春場所前、幕内力士の一部が給金増額と協会会計の明朗化を協会に要求したが聞き入れられず、力士たち十数名は東京新橋倶楽部にたてこもってストライキに入った。これを「新橋倶楽部事件」という。外部の好角家の調停で、本場所興行の決算に力士側委員たちを立ち合わせること、興行収入の一部を力士の養老金・慰労金に充てることなどを協会側が譲歩し、終結した。
また、大正12年(1923)年の春場所前には、幕内力士たちが養老金・給金の増額などを要求して東京三河島の日本電解会社工場にたてこもった。ストライキに加わらなかった、横綱大錦以下、数名の横綱と大関が調停に入ったが決着がつかず、当時の警視総監の調停によって決着した。翌5月場所からは、従来の十日間興行を十一日間に延長し、その増益分が力士の養老金にあてられることになった。
これらの、力士たちによる労働争議によって、給金が引き上げられ、養老金・慰労金が整備されて、徐々に力士たちの経済基盤は整っていくのだが、この大正末期は世界的な不況や国技館の2度の全焼などもあり、相撲社会の経済的な自立の歩みは、依然として緩やかであった。
大阪でも大正12(1923)年に養老金問題に端を発した内紛が起こり、幕内力士の半ばが土俵を去っていた。京都相撲は、ロンドンで行われた日英博覧会への出席にはじまる長い海外巡業が仇となり、すでに明治43(1910)年に経営難の末解散していた。
引き上げられた力士たちの給金と、不況で伸び悩む入場料収入が二重にのしかかり、苦しい経営を強いられていた東京大角力協会と、幕内力士が半減し衰退していた大阪角力協会は、前述のように、大正14(1925)年4月の皇太子(のちの昭和天皇)の台覧相撲をきっかけとして合併し、はじめての全国的相撲興行組織である大日本相撲協会が大正14年(1925)年12月に誕生した。昭和2(1927)年の1月に、東京で合同後はじめての本場所が行われ、両相撲協会は正式に一つになったのである。
明治以降の、相撲興行体制の近代化は、ここにひとつの帰結をみたのである。
大正末期から昭和6(1931)年9月の満州事変が起こるまでの数年間は、国情は深刻な不況に呻吟していた。各地に労使の闘争が頻発したり、政財界で疑獄事件が起こるという不穏な世情の中で、最後の力士による労働争議である、「しゅんじゅうえんじけん春秋園事件」が起こった。
昭和7(1932)年1月、 番付上の不服を引き金として、協会の実力者であった年寄でわのうみ出羽海の専制に断固反対するとともに、「相撲社会の改革」を叫んで、大関大ノ里と関脇天龍をはじめとする総勢32名の出羽海部屋の幕内力士(14)が立ちあがった。彼らは10ヶ条からなる協会改革の要求(15)を協会につきつけ、東京大井町の料亭春秋園に立てこもった。協会側は財政状況の困難さを説明して改善努力することを誓ったが、あくまでも具体的な改善策の提示を求める力士団はこれを不服としてまげ髷を落として連名で脱門状を提出し、それを受けて師匠の出羽海も彼らを破門した。
相撲協会から破門された天龍らは「新興力士団」を結成し、のちに彼らの動きに呼応して協会を離れた力士たちによって結成された「革新力士団」と合流して大日本相撲連盟となり、自主興行を旗揚げした。首謀者の一人武蔵山は力士団を脱出し出羽海部屋に帰参したが、この大日本相撲連盟には西方のほぼ全ての幕内力士のみならず、東方の鏡岩、朝潮、太郎山などの有力力士も加わり、大勢力となった。(16)
その後内紛や協会の説得もあって、一部の力士はこの年の内に協会に復帰したが、翌年には大日本相撲連盟は大阪に拠点を移し、大日本関西角力協会となって興行を打ったのである。
それから大日本関西角力協会は関西を中心に興行を続けたが、日本相撲協会側への帰参者が続出し、経営がたちゆかず、昭和12(1937)年には解散してしまう。彼ら関西角力協会による興行はわずか5年ほどしか続かなかったが、相馬基によれば、その興行は、「
「試合」と称して、Aクラス、Bクラスなどの階級別や4−1、4−2などという数番勝負を行うなど、完全に新機軸」(17)であったという。 しかし、「はじめは目新しく客も集まったが、しだいに相撲そのものには飽きが来て客足は遠のいていった。」(18)
同じく相馬によると、「その後、のちの大横綱双葉山や、玉錦、鏡岩などの名力士や、新興力士団からの復帰力士の活躍などにより大日本相撲協会は人気を取り戻した」(19)
とあるから、関西角力協会の相撲がすぐに飽きられたのは、大日本相撲協会への帰参力士の続出などにより、純粋に相撲の力量に優れた力士たちによる面白い相撲が減ったからではないかと私は考える。すなわち、「階級別」や「数番勝負」という、近世以降の「故実」を完全に無視した、「新機軸」により相撲が行われたことは、人気の減少につながらなかったのではないかと推測できるのである。天龍ら大日本関西協会が、このような新機軸の相撲を行ったことは、もちろん東京の大日本相撲協会との差別化を図りたかったからだろうが、そこには「相撲はスポーツだから、競技の規則さえ変えなければ、いろいろな相撲の形態があっても良い」という考えがはたらいたのではないかと推測できる。もしそうならば、これは明らかに明治以降に流入した「スポーツ」概念の影響が働いていたと言えるのである。
この春秋園事件から大日本関西角力協会の興行までの短い期間においては、戦時下であったこともあり、抜本的な改革はできなかったが、ほとんどの要求は戦後の協会の機構改革でその実現をみることになった。(20)
こうした力士たちの相撲社会改革への熱意は、その多くがすぐには実らなかったが、戦後、昭和32(1957)年から同34(1959)年の相撲協会の機構改革で、現在の大相撲興行を支える興行システムが完成し、相撲の興行体制の近代化は一応の完成をみた。(21)
このような改革につぐ改革の歴史を眺めてみて感じられるのは、要求が入れられなければ協会を脱会するほどの、力士たちの改革への熱意、そして、相撲社会の、内部からの改革の要求に対する反応の鈍さと、それに比べれば滑稽にも映る、外部からの圧力に対する弱さである。ここに私は、古代以来の相撲と権力との強いむすびつきを思い出さないではいられない。
第三節 近代スポーツと相撲
近代になって西洋から輸入された近代スポーツは、新聞などメディアの後押しを受けながら普及し、国民の身体文化のひとつとして定着した。その「近代スポーツの普及」という言葉は、野球や陸上など、西洋で生まれたスポーツの個別の競技そのものが学校などを通じて人々によって盛んに行われるようになったことを指すと同時に、それらの総称として、また、抽象的な概念としての「近代スポーツ」という観念が、国民の間に定着したということも意味している。
近代スポーツと相撲の間の関係を考えるときには、重要となるのはもっぱら後者、すなわち個別の競技ではなく、新しい概念としての「近代スポーツ」との関係である。
近代スポーツ概念と相撲との間には、前者が後者のおおらかな多様性を制限してきた、ある種の摩擦の歴史とでも言うべきものがある。しかし、それと同時に、近代スポーツ概念は、近代以降の相撲の独自の発展に純粋に貢献してきたという側面も否めないのである。
このような複雑な、近代スポーツ概念と相撲との関係を考えるときに、まず最初に考えなければならない問いは、「果たして相撲は近代スポーツなのか?」というものであろう。現在でも研究者から一般人に至るまで、実に多くの人々がこの問いに対する答えを探していると言える。
私は、この問いに対して厳密な答えを出すことが最も重要だとは考えていないが、この問いに対する答えを考える過程で、相撲の歴史研究の目的である、「現在の相撲が置かれている複雑な社会的状況を正しく理解し、これからの相撲の行く末を考える」ことへのヒントが得られるのではないかと考えている。
また、この問いが多くの人々の関心を引く重要な問いであるならば、それに対する答えを探していく中で、人々が相撲をどのように捉えているかに関するイメージが見えてくるのではないだろうか。そういう意味でも、「果たして相撲は近代スポーツか?」という問いを考えることは、実り多い作業であると考えられる。
相撲が近代スポーツかどうかを考えるためには、まず近代スポーツ概念そのものについて考えなければならない。そもそも近代スポーツとは何であり、どのような特徴とどのような発展の歴史をもっているものなのか。
山本によると、スポーツの定義としては以下のようなものが一般的である。
「スポーツの定義には諸説があるが、「遊戯の性質を持ち、自己または他者との闘いや自然的要素との対決を含む身体活動はすべてスポーツである」というI・C・S・P・Eのスポーツ宣言にみる定義やスポーツをゲームの特殊ケースとして捉えた「その結果が身体的技術や戦術あるいは運、およびそれらの組み合わせによって決定する遊戯の要素を内包する競争をスポーツと呼ぶ」(J.W.Loy)という定義が一般的である。」(22)
しかしこれは、あまりにも広い定義であり、この定義の適用はあまり重要な意味を持たない。そもそも、この定義からあまりにも明白に外れるならば、「相撲はスポーツか?」という問いはなされることすらないであろう。一見するところ、この定義には問題なく当てはまるようである。
そこで、A.グットマンが提唱した、スポーツの進化論モデルというものを引いてみよう。このモデルは、近代になっていきなり発明されたものではなく、原始・古代の宗教的儀式・祭り・遊戯などから生まれたスポーツが(23)、その原初の段階から徐々に発展して行き、近代に至って近代スポーツとして完成するまでの進化の過程で起こる変化を、8つの連続体ないし軸にそって書き出したものであり、しばしば近代スポーツを動かしている本質的な原理に言及するときに用いられる。それは以下のような、8つの軸を用いて説明される。(24)
1. 世俗性 原始的なスポーツは、しばしば宗教的な要素を多く含むが、進化の過程でそれらは切り落とされるかもしくは儀礼性を減じていき、近代スポーツの成立に至っては、宗教的儀礼性は本質的ではなく、付随的なものになるか、もしくはなくなる。
2. 官僚性 「スポーツの進化は、公式の組織がほとんどないか、もしくはまったくない状態から入念で複雑な組織をもつ状態に至るまで、官僚性の増加によって特徴づけられる。
スポーツにおける官僚性の発達のレベルと相関関係にある一つのものは、ルールの構造の複雑化である。管理者と機関の数がふえればふえるほど、個々のスポーツに属するルールの数もふえていく。そしてルールの数がふえればふえるほど、ますますルールはそれ自身が目的となっていく。官僚性は手続に対する忠誠を涵養する。」(25)
3. 社会的同一性 前近代社会では、スポーツを行う集団は、血縁関係にある人々や、地域共同体の構成員で構成されるが、近代スポーツに進化するに従って、集団内は非血縁的、もしくは、スポーツ以外に同じ社会的文脈を共有しない他人になっていく。
4. 社会的距離 社会的距離の増加とは、個人が属する社会集団間の関係性が増えることである。近代になるに従って、人々が属する社会集団の数は、家族、友人関係、学校、仕事場、協会、近所づきあいといったように、前近代社会と比較にならないほど増加する。スポーツの性質は、それがどのような社会的距離を背景にして行われるかによって変わる。日本の野球を例にとると、阪神ファンの一部は、巨人に「関西を周辺に追いやるにっくき首都東京の、はなもちならないエリート意識」を見るがゆえに、広島戦では見られないほど力を入れて、打倒巨人と叫んで阪神巨人戦に見入るのである。背景となる社会的関係性のタイプが違えば、それに付与される意味も異なる。
5. 専門化 現在のアメリカで、16歳で160センチしか身長がない少年がプロバスケットボールプレーヤーになりたいと思うだろうか。しかし、彼が運動センスに優れているならば、彼は別のスポーツを選択してそれに打ちこむことができる。社会が近代化すればするほど、スポーツの種目数は増える。また、アメリカンフットボールは、近代スポーツの中でも最も高度に専門化されたスポーツである。選手はゲームの中のごく一部の役割しか担わない。専門化は、このようなゲーム内での専門化も意味する。
6. 道具 「人類文化の進化と共に技術はより高度化し、そしてそれに伴ってスポーツ道具も精巧になる。」(26)
7. 生態学的意味 「食物の供給が野生動物を槍で仕止める狩人の能力の働きに依存する社会では、槍投げ競技はすぐさま明瞭な適応目的に役立つ。遊びと経済のつながりがはっきりしているのだ。」(27)
当然のことだが、近代スポーツには、食物採取などの生態学的意味はない。
8. 数量化 前近代社会で行われるスポーツにおいては、結果は記録すらされなかったが、成績・結果を数量化することは、近代スポーツの基本要素である。
これまでの章で、相撲の発展と変容の過程に関しては詳細に見てきたので、この進化のモデルを相撲の歴史と比較してみることによって、相撲が近代スポーツたりえているかという問いに答えることができる。
そこで、8つの各軸について、それぞれ相撲の発展の歴史、およびその帰結としての現在の相撲にあてはめて考えてみたい。
まず、世俗性であるが、国家的「年占」であった相撲節を見てもわかるように、古代の相撲は、神事としての意味付けを与えられていた。相撲節における相撲の宗教的儀礼性は、そのころ盛んに寺社などにおいて行われていた(28)と考えられる神事相撲にも多く共通したものである。しかし9世紀に入って相撲節の国家的「年占」としての性格が薄れるのと同様、神事相撲の一部は奉納相撲になり、そして中世以降の勧進相撲となって、観客に供される芸能としての性格を強めてゆくという変化をたどる。これはこのモデルでいう世俗性の増加と宗教的儀礼性の減少そのものと言えるのではないだろうか。
このことに関連して、荒井貞光の説を紹介しておきたい。荒井は、前近代社会における生活原理が、スポーツによってその枠組みを変えられ、祭典競技などに変質していく過程を明らかにする研究の中で、一つのモデルを提示している。(29)
荒井によれば、祭礼の中で行われるスポーツ的なものの性質は、社会の発展段階に伴って「呪術」「奉納」「余興」「本興」の順で移り変わって行くという。「呪術」段階においては、そのスポーツ的な行為自体が神とのコミュニケーションであるが、「奉納」段階になるとその儀礼性が減じ、「余興」段階に至っては、神とは異なる次元での参加者の娯楽になってしまい、ついに「本興」段階における、スポーツ的行為自体の目的化に至るというのである。
このモデルは、国家的「年占」の神事、および各地の神事としての相撲がその儀礼性を減じ、奉納相撲などの神事の際に供される芸能になり、それが中世の勧進相撲を経て営利勧進大相撲に発展して芸能として確立し、近代の大相撲に至るという、日本における相撲の歴史の重要な一つの流れに見事にあてはまるのである。
結論として、世俗性の増加と宗教的儀礼性の減少によるスポーツの近代化の一側面は、相撲において実に顕著にあらわれていると言える。
次に官僚性であるが、中世以降の専門的職業相撲集団と、その歴史的帰結である現在の日本相撲協会を見ると、相撲とそれをとりまく組織がいかに官僚化しているかがわかると思う。また、現在では、アマチュア相撲に関しても、これを統括する日本相撲連盟が存在している。また、「そしてルールの数がふえればふえるほど、ますますルールはそれ自身が目的となっていく。官僚性は手続に対する忠誠を涵養する。」という部分に関しても、「故実」の一部がルールであることを考えれば、よしだつかさけ吉田司家によって権威を与えられた「故実」に基づいて行われる近世以降の大相撲は、実に官僚性に満ちていると言えるのではないだろうか。「故実」に基づいて取組を進める行司は、ここでいう「官僚」の代表的存在であるとも言える。
社会的同一性の面でも相撲が近代スポーツ化しているのは疑いのないところであろう。そもそも、相撲は、古代相撲節においては、全国各地から集められた相撲人によって取られていたのである。相撲節相撲人は、農民や武士など、社会的に広がりをもつ様々な母集団から輩出されていた。
社会的距離と専門化に関しては、他の軸に比べ、その意味するところが特定しがたいので、ここでは判断を留保したい。
次に、道具に関してである。相撲は、「裸身に褌」のいでたちで行われることを絶対的原則としているために、この道具の面に関しては一見前近代的であるかのように見える。しかし、最上級の絹でつくられた関取の化粧まわしや土俵、行司の装束などの大相撲を彩る道具立ては明らかに精巧な技術の産物であることを考えると、相撲が道具に関して前近代的だとは言えないのである。もっと高度な技術が導入されていなければ近代スポーツと言えないというのであれば、現在の国技館の電光掲示板や、勝負がもつれた際に、勝負審判がVTRを参考にすることをあげておきたい。
生態学的意味に関しては、言及するまでもない。現在、相撲を取ること自体に生態学的な意味は見られない。
数量化は興味深い指標である。L.トンプソンは、個人優勝制度と横綱昇進の関係を論じながら、相撲がいかに高度に数量化されているかを明らかにした。(30)
基本的に、相撲では、白と黒の2色で表される勝ちと負けの数を基本として全ての量的指標がなりたっており、他のスポーツに比べて単純だが、その分、わかりやすくなっている。
このように、スポーツの進化論モデルにおける8つの軸のそれぞれを相撲にあてはめてみたわけだが、相撲が近代スポーツでないことを明確に主張する根拠は見当たらない。このモデルは、現在の相撲が、スポーツの進化の帰結としての近代スポーツたるべき条件を満たしているだけではなく、その歴史そのものが、一般的なスポーツがその原初のかたちから進化して近代スポーツに変化していく流れにもあてはまっており、まさに相撲が近代スポーツたりえていることを証明しているのである。
以上のように、スポーツの一般的理論を用いるならば相撲は近代スポーツであることがわかったが、それは、相撲がサッカーやバスケットボールなどといったウェスタン・スタイルの近代スポーツと全く同じ性質のものであるというわけではない。相撲は、いわば「最低限の近代スポーツが満たしているべき条件」を満たしているだけであり、「相撲は近代スポーツらしいスポーツか?」という問いへの答えは、もちろんノーである。相撲は、現在でも、欧米産の近代スポーツには見られない特徴をもっており、それがために近代スポーツ「らしくない」のである。
そのことを明らかにするために、いくつかの議論を引用したい。
伊藤公雄は、「グットマンの指摘する世俗性・平等性・官僚化・専門化・合理化・数量化・記録への固執といった近代スポーツの原理は、そのまま、近代国家・近代産業社会の論理を反映しているといえるだろう」(31)と述べ、上記の8つの軸に平等性と記録への固執を加え、近代スポーツの基本原理としている。
この平等性(平等主義)という概念は、近代スポーツにはなくてはならない重要な原理である。近代スポーツにおいては、全てのプレーヤーは完全に対等な条件下でその能力を発揮し、勝敗を競い合わなければならない。プレーヤー間の不平等な関係はあってはならないのである。この考え方によるならば、体重100キロにも満たない舞の海と230キロを超える小錦(現役時代)の対戦は、あってはならないのである。ここに相撲と近代スポーツとの間の深い溝が見られる。
このような不平等は、相撲だけでなく、体重制を採用する以前の柔道など、日本の運動文化には珍しくないことであった。この理由について中村敏雄は以下のように指摘している。
「たしかにわが国で行われてきた「勝負ごと」には独特の勝敗観のあることが指摘できる。たとえばそれは囲碁や将棋などでその時を心得た「投了」(競技の途中放棄)がおくゆかしいと賞賛されたり、全日本柔道(剣道)選手権大会の優勝者よりももっと上位の段位保持者がいたりとすることがほとんど何の違和感もなく認められているということなどである。土居健郎によれば、このような伝統は、たとえどれほど勝ち進もうとも最後に天皇を超えることはできないということが明らかななかから生まれたものであり、これがわが国で行われてきた「勝負ごと」では勝敗を徹底的に争わないという伝統を形成すると同時に、勝敗よりはその争い方のほうを尊重するという傾向を生み、「わび」や「さび」、あるいは日本的な「美」や「道」などの価値追求を重視する理念や方法を発達させたのだという。事態がこのようである以上、勝敗の争いは最重要な追求課題である「美」や「道」の創造の下位に位置せざるをえず、したがって体重制などという勝敗を争うための平等主義は考慮外のものとならざるをえなかったといえる。」(32)
つまり、相撲と近代スポーツらしいスポーツを分かつものの一つである、平等性の有無は、日本の社会・文化によって形作られた価値観に深く根を下ろしていると言えるのだ。
この日本独特の価値観は、もう一つの重要な要素である、記録への固執(記録万能主義)に対する、日本と西洋の捉え方の違いとなってもあらわれる。中村によると、そもそも記録への固執は、もともとブルジョワジーによって行われるものであったスポーツを、身分や民族に関係なくすべての人々に開放する際に生まれたものであるという。(33)
「身分」や「地位」、「白人中心主義」などをスポーツから排除するために、個人の「能力」を客観的に数量化した、「記録」が唯一の判断基準とされたのである。
日本においては、前述のように、どんなに勝ち進もうと最後に天皇を超えることはできなかったため、勝負ごとにおいては、「勝利至上」主義ではなく、勝負の過程に「美」や「道」などの価値を追求することに重点がおかれた。よって、「相撲道を極める」過程において69連勝を成し遂げた双葉山は賞賛の的となり力士の鑑とされたが、「決まった型をもたず」勝ちつづける大鵬はその実績に見合った評価を得ることができなかった。日本においては、記録への固執が、自己を鍛練しつねに高みへとのぼろうとする「道」的な価値観のもとで行われる場合にのみ賞賛されるといえよう。
このように、平等性と、記録への固執という2点に着目すると、相撲と近代スポーツとの間には、大きな溝が横たわっていることがわかる。そしてその溝をつくりだした原因は、他ならぬ、相撲を生みはぐくんできた日本文化と日本人の精神性であったのだ。
この2つの相違点をもって、相撲が厳密には近代スポーツたりえていないと結論付けることもできるだろうが、前述したように私は、「相撲は近代スポーツか?」という問いが最も重要で、それに厳密な答えを出すことが求められているとは考えていない。
私の考えによれば、最も重要な問いは、「今後の相撲はどうあるべきか」という、相撲の行く末に関するものである。
相撲の歴史研究の意義もまた、この問いに答えるためにあるということは序章でも述べた。
そして最後に、以上の議論を参考にしながら、この問いに対する私なりの考えを述べて、この研究のまとめとしたい。
私の考えによれば、現在の相撲が置かれている言論状況の複雑さの最も大きな原因は、相撲を「近代スポーツ」か、もしくは「伝統的日本文化の粋を集めた芸能」のどちらか一方として捉え、そのどちらかにのみ立場をおいて、相撲を論じていることにある。
相撲の長い歴史をひもといてみると、相撲は、その「ゆうずうむげ融通無碍」な性質を存分に発揮しながら、自らの都合のよいように、所属する文化的カテゴリーを変えてきた。
太平洋戦争中は、「相撲は日本国民精神の規範たる武道である」と公言していた日本相撲協会は、敗戦後は一転して「相撲はスポーツ、競技である」と主張して、GHQの武道禁止を逃れたのは有名な話である。
このような、どちらに転んでも対応できる柔軟さとどちらにも転ぶ懐の広さこそが、歴史的な相撲の本質であった。
この、どうにも取れる融通無碍、という相撲の性質は、これからも大切にしていかなければならないと私は考えている。つまり、その時々の人々や社会の要求に用いて、自らを柔軟に変えられること、このことが最も重要であり、これからの相撲が失ってはならない性質であろう。
しかし、近代スポーツの一つとしての相撲も、確実に世界の人々に認知され、もはや後戻りはできなくなっている。
最後に、このような状況を考慮に入れながら、私なりの、「今後の相撲はどうあるべきか」という問いに対する答えを書いておきたい。
これからの相撲のとるべき道は、近代スポーツとしてのアマチュア相撲と大相撲の世界を完全に分割し、2つの相撲を完全に別のものとすることだと私は考えている。
完全に近代化され、国籍に関係なく世界中の全ての人に開放された近代スポーツの一つとしての相撲と、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲を分けて考えることが、両方の相撲の発展につながるのではないだろうか。
誤解のないように言っておくと、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲と言っても、それは格闘技としての激しさや面白さを失うものではないと私は考えている。相撲の長い歴史が証明するように、格闘技としての面白さが失われた相撲は、人々の関心からはずされ、芸能としては確立し得ないのである。
2つの相撲を分けることによって、近代スポーツたる相撲は、ルールがさらに明文化され、「裸身に褌」という、高い敷居がはずされ、もっと多くの人々にその門戸を開くはずである。
同様に、大相撲は、近代スポーツを基準とした、攻撃的な言説から、その、伝統芸能としての様式美を守ることができるだろう。
近代スポーツとしての相撲と、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲を分割することが未来の相撲の発展につながる。
これが私の考えであり、相撲の歴史研究によって得られた私なりの知見である。
最後に、相撲の歴史が教えてくれる、その懐の広さは、日本人の精神性と日本文化の豊かさのあらわれであるように思われることを記して、この論文の結びとしたい。
註
(1)後の節でも触れるが、太平洋戦争後のGHQの武道禁止に対して、相撲協会は、戦前の軍部に対する「相撲は武道である」という主張を一転させて、「相撲はスポーツ、競技である」と積極的に主張した。このことに触れて、新田一郎は「この融通無碍、これこそが相撲であった」と言っている。(新田[1994]、289頁)
歴史から感じられる相撲の性質をたった一語で表現することに成功している。まさに言い得て妙、である。
(2)現代の大関武蔵丸に瓜二つの西郷隆盛参議は好角家であったと言われ、薩摩島津家のお抱えであった横綱陣幕とも親しかったという。これらのことから、おそらく西郷も相撲擁護派の一人であったと思われる。
(3)相馬 [1970]
(4)昭和32(1957)年に、「大日本相撲協会」の「大」をとって「日本相撲協会」に改称された。
(5)宮本 [1992]、100頁
(6)昭和7(1932)年の春秋園事件による力士の減少から、それまでの東西対抗の団体戦にかわる制度として、部屋別個人対抗制がはじめて考案された。しかしその時は、東西制の東方を自分の部屋の者で独占して来た出羽ノ海梶之助の強硬な主張により、個人優勝を競う系統(一門)別総当り制に落ち着いたとされている。力士の数が回復すると、昭和15(1940)年初場所から再び東西制が復活した。それ以降は、東西対抗による団体優勝制度と、系統(一門)別総当り制による、個人優勝制度の二本建てで本場所が行われていた。この時の改革で東西対抗による団体優勝制度がなくなり、個人優勝に一本化された。その後系統別総当り制は、昭和40(1965)年初場所から部屋別総当り制にとってかわられる。
(7)北・冬を表す玄武神、南・夏を表す朱雀神、東・春を表す青龍神、西・秋を表す白虎神。これらを四神といい、4本の柱はそれぞれこれらを表すものとされていた。この4本柱の撤廃に伴い、つり屋根から黒・赤・青・白の4色の房を下げて、4本柱にかえることになった。
(8)現在は、1月の初場所、5月の夏場所、9月の秋場所が東京の両国国技館で、3月の春場所、7月の名古屋場所、11月の九州場所が、それぞれ、大阪、名古屋、福岡で行われ、合計年6場所制である。
(9)加藤 [1942]
(10)新田 [1994]、270頁
(11)中世の勧進相撲、近世の勧進大相撲では、「木戸銭」と呼ばれた。
(12)現在の両国国技館から徒歩5分。かつては宗派に関係なく、無縁仏を差別なく引き受けた日本でただひとつの寺であった。
(13)本場所ごとに小屋をかけ、雨が降れば「いれかけ入掛」と称して興行を中止し、天候が回復するとふれだいこ触太鼓をまわして再開する、という興行形態のこと。雨が降りつづけ、十日間の本場所を終えるのに二ヶ月以上を要した例があるという。
(14)当時は番付の西方と東方が団体優勝をあらそう東西対抗制であり、西方は出羽海部屋の力士によって独占されていた。当時の本場所は、さながら、「出羽海部屋VS連合軍」のような有様であったらしい。東西制ではないが、一時期の二子山部屋を思わせる。
(15)この時の要求書の内容は以下のようなものであった。
一、相撲協会の会計制度を確立すること
二、興行時間を改正すること
三、入場料を低下し角技を大衆のものたらしめること
四、相撲茶屋を撤廃すること
五、年寄制度を漸次に廃止すること
六、養老金制度を確立すること
七、地方巡業制度を根本的に改革すること
八、力士の収入を増加し生活を安定ならしむること
九、冗員を整理すること
十、力士協会を設立し共済制度を確立すること
(16)幕内力士が大幅に減った大日本相撲協会では、十両・幕下から多くの力士を特進入幕させ、東西制を廃止し系統(一門)別個人優勝制度をつくるなど、興行形式の改変を迫られた。
(17)(18)(19)ともに、相馬、[1970]、302頁
(20)註(15)の、第十ヶ条のみが昭和8(1933)年に実現している。
(21)興行体制の近代化は一応の完成をみたが、現在でも、「部屋」「相撲茶屋」というような、近世からの伝統をひきずった一見不明瞭な制度はある。しかし、私はそれが悪いから改めるべきだというようには考えていない。
(22)山本 [1979]、3頁
(23)近代スポーツは、その誕生の時期と契機に着目すると、大きく2つに分けることができる。例えばフットボール(サッカー)は、中世のイングランドの祭りをその起源とするのに対して、バスケットボールは1891年12月,アメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドの体育教師ネイスミス氏が、冬季に体育館でプレーする新しいゲームとして、新しくつくりだしたものである。このスポーツの進化論モデルは、進化の過程について用いるならば、前者のようなスポーツに対して適用できる。
(24)このモデルは K. Blanchard, A. Cheska [1985]、190頁より引用
(25)K. Blanchard, A. Cheska [1985]、191頁
(26)K. Blanchard, A. Cheska [1985]、194頁
(27)K. Blanchard, A. Cheska [1985]、194頁
(28)第二章第二節で紹介したように、一部の神事相撲は、その宗教的儀礼性をとどめたまま現存する。
(29)荒井 [1979]、61〜66頁
(30)Lee A. Thompson [ ] を参照
(31)伊藤 [1998b]、184頁
(32)中村 [1989]、27〜28頁
(33)中村 [1989]、65頁
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